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入社2年目の夏、僕はまだペーペーの新人に近かったくせに社内の誰よりも長い8連休を申請した。
多分社長よりも長かったんじゃないかと思う。

休みの日数そのものは正式に認められたものだったのだけど、他の社員は大体2〜3回に分散させて休みをとっていた。
そういう休みの取り方の方がそれぞれのライフスタイルに合っていたのかもしれないし、単に会社やフォローに入る他の社員に遠慮していたのかもしれない。
しかし夏休みは目一杯ツーリングに使いたかった僕は、とにかく休みは連続して一日でも長い方が望ましかった。

もしかしたら僕の休みの取り方にアレコレと文句を言っている社員もいたかもしれないけれど、本人の耳に直接入ってこない限りは他人の言うアレコレには鈍感でいた方が人生概ねハッピーだ。

そういうわけで僕は休みの初日の朝4時から信州へ向けて旅立った。

中古で購入して間もなかった(箸にも棒にもかからないボロだったが・・・)CBX400Fにキャンプ道具を満載して東へと向かった。
当時赴任していた岡山から、ブルーハイウエイ、山陽自動車道、太子辰野バイパス、加古川バイパス、姫路バイパス、第二神名、阪神高速、東名阪道を経由して昼前に名古屋に着くと、そこからは国道19号線を使って北上した。

今だったら信州へ向かうのにR19を使うことはまずないんだけど、その頃は国道19号線という道路に対して、信州へと向かう何か限りなく神聖でロマンチックなイメージを持っていて「瑞浪」とか「中津川」とかそういう地名にもいちいち旅情を感じたりもしていた。

初日の晩は岡谷に住む叔母の家に泊めてもらい、その後はヴィーナスラインや奥飛騨や志賀高原などをキャンプを重ねながら走り回った。

時代は80年代後半。季節は夏だ。
あちこちでツーリングライダーと出会い、道連れとなり、それはそれは楽しい旅だった。

しかしたいして予定を立てていたわけではない。
ある程度有名処を走った5日目の晩。僕は気まぐれに千葉の実家に帰省してみることを思いついた。
翌日の天気予報が雨だったこともあって、若干テンションが落ちていたこともある。
そう言えば今年の正月は友人とスキーに行っていて結局実家には帰らず終いだったなぁ・・とテントの中でボンヤリ考えていたら案外それは悪くないアイデアのように感じられたのだ。

翌朝、山の中のキャンプ場から町へと下り、僕は公衆電話から帰省する意を母に伝えると千葉方面へとハンドルを向けた。

それでもあちこちと寄り道をしていたら、中央道で東京方面へと向かう頃にはすっかり夜になってしまった。
どこかの街で花火大会を開催しているようで、防音壁のすぐ向こう側で盛大に火花が上がっている。

雨は終始降ったり止んだりだったが、真夏のことなのだ。
僕はカッパも着ないで濡れるにまかせた。雨が上がると、夜にも関わらず熱風がジーパンを乾かした。
実家に着いたのはもう日付も変わろうという時間だった。

母は「あらまぁホントにバイクで帰ってきたよ」と呆れ顔だ。

実家で二日間ほどゴロゴロしていた。
特に何をするでもなく、本当に文字通りゴロゴロだけしていた。迷惑そうな猫を弄繰り回す時以外寝てばかりいた。
大阪の大学に在学中もほとんど帰省することがなかったので、地元の友人ともすっかり疎遠になってしまっており、特に誰と会うわけでもなかった。

さて、そんな怠惰な実家滞在の二日目の夕方。
母が僕の部屋の襖を開けると「ちょっと隣町まで買い物に行ってくるね」と断ってきた。
僕は適当に生返事をしながら、ふと思いついて聞いてみた。
「隣町までって・・・何で行くの?」
「自転車よ」と母。

「あのさ」と僕。
「バイクに乗っけてこうか?」と提案してみる。
自分で提案しておいて、母とタンデムするという事を思いついた自分に驚いていた。

母は一瞬キョトンとした後に、気の毒になるくらい狼狽しだした。
「いや・・あなた・・バイクなんて乗ったことないし・・怖いわよ・・それにご近所に・・」とか意味もなく前に後ろに揺れている。
「それにヘルメットだって・・」とようやくまともな断り文句を見つけた母に「サトシ(弟)のがあるじゃん」と言ってみる。弟もその当時はバイクに乗っていた。

母はそれでも「いいからいいから」と明らかに挙動不審な態度で買い物の準備をしていたかと思うと、ちょっと考える顔になって
「ねぇ?本当に危なくない?」と聞いてきた。

僕は可笑しくなって「大丈夫だよ(これでも女の子はしょっちゅう乗っけてたんだぜ)」とカッコ内は口に出さずに言った。
母はさらに挙動不審になりながら、自分なりにバイクに乗るにふさわしい服装などを見繕いながらもまだ
「バイクの後ろに乗るなんて、あなたこの歳になるまであなた」とかブツブツと言いながら着替えている様子だ。

僕も短パンからジーパンに着替え、出かける準備をする。

するとしばらく静かになっていた母がまたソーーッと襖を開けると
「お母さん・・・やっぱりやめとく・・怖いし・・恥ずかしいし・・」とすまなそうな口調で言った。

僕はそれ以上無理強いするのも可愛そうな気がして、「あ、そう?まぁムリにとは言わないよ」と笑いながら言うと
母は「また今度ね」言うが早いが愛用のママチャリに乗って、帰省している息子のためのステーキ肉を隣町まで買いに走った。

あれから20年。2009年現在、母はまだ健在だ。

元々元気な母ではあったが、10年前に胃ガン手術から生還して以来、以前にも増して人生を楽しむことに貪欲になったようで、毎日忙しくて仕方がないようだ。
学生時代にやっていた卓球に再びのめり込み、あちこちの街に遠征しながら試合をこなし、大好きな千葉ロッテマリーンズの応援のために年に何度も球場に足を運んでいる。
昔話にはあまり興味がないようで、選手名鑑を手に今年ドラフトで入った新人選手の論評を、日ハムファンの弟や中日ファンの妻と熱心に戦わせている。
興味の対象のほとんどは「今」と「これから」と「渡辺俊介のコンディション」だ。

対して、肝臓ガン、肺ガン、脳出血と三回大病に見舞われ、その度に「あぁもうこれはもうダメかも分からんね」と周囲に思われつつ、その度に生還している父の生活態度は全く対照的だ。
病気と因果関係の明らかな酒やタバコも全くやめる気がない。周囲の忠告にも全く耳を貸さない。
そういう周囲の忠告が「貴方の身体を心配している以上に、貴方がそうやって自分の健康に無頓着だと、結局は他人に迷惑をかけることになるんだよ」という意味を含んでいることに想像力が働かない。
身体が言うことを利かないので、終日寝転がって時代劇ばかり観ている。口を開けば昔話だ(オレもかww)。

僕はこの父と母の生きる上でのスタンスの根本的なポテンシャルの差を見るにつけ、「人生を前向きに楽しむ」という能力においては、男はどう逆立ちしたって女の人には適わないんじゃないかと思わざるを得ない。
そしてその差は年齢を重ねる毎に広がっていく。

今の母なら僕のバイクの後に乗るかもしれないが、さすがに70過ぎた老婆を40過ぎの中年息子がタンデムするのは漫画でしかない。
それに結婚してから、僕自身がオートバイで帰省することは無くなった。

それを思うと、僕は20年以上前のあの日のことを軽い悔恨とともに思い出す。

果たして世界中のライダーの中で、母親とタンデムする幸運に恵まれた男がどれだけ存在するのか知らないが、その時の僕は何だか人生でもとても貴重な体験をみすみす逃したような気がしてならない。

「後に乗るかい?」の替わりに今僕が言うべき言葉は「まぁ長生きしておくれ」なんだけど、口に出して言うことは無いんだろうな。やっぱり
後に乗るかい?ママン