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僕がアルバイトをしていた居酒屋にSという大男が入ってきた。

私生活にはだらしのないヤツが多かった居酒屋の深夜バイトのメンバーの中で、Sは体育会系で有名な大学の空手部所属という異色の人材で、身長はゆうに180cmは超えており、頭なんか霞んで見えないくらい大きかった・・・というのはもちろんウソだけど、男の中でもチビっこい僕が隣で話すと完全に見上げる格好となった。
太ってはいなかったが、格闘家らしく全体にガッチリしていて、何だか小山のような印象を僕に与えた。
Sはナリもデかけりゃ声もデカかったが、体育会系の学生らしく、たかがアルバイトのメンバーに対しても先輩・後輩のケジメをしっかりとつける礼儀正しい男でもあった。

そして彼は、毎日20km近く離れている自分の家からヤマハのチャッピーというとても可愛らしいミニバイクの上にチョコンと乗っかって、アルバイトに通っていた。
あんまりベタなことは言いたくないけれど、それは誰がどう見てもサーカスの熊そのものだ。

ところでヤマハのチャッピーって知ってるだろうか?まぁ40歳以上の人なら覚えがあるだろう。

ロータリー式2段変則の「レジャーバイク」というヤツで、当時でももうJOGなどの速くて洗練されたスクーターが主流になっていた中では旧式に属するミニバイクだ。

Sの家からバイト先の居酒屋の間には、小さいながら峠が一つあって、チャッピーは大きなSの身体を失速寸前になりながらも毎日健気に運んでいた。


さて、そこ頃僕は学生寮を引き払ってアパートに移り住んだばかりで、その新居はほとんど二日と開けずに深夜バイト連中の格好のたまり場となっていた。

話すことはどうでもいいようなバカ話が多かったけれど、忙しいアルバイト先で一緒に働いている仲間というのは、学校の友人などと比べるとなんだか一種の「連帯感」みたいなものがあって、僕らは毎日のように顔を合わせながらも話は案外尽きることが無かった。

そんなある日のこと。
Sが一人で僕の家にやってきた。
もう25年も前のことなので記憶も曖昧だけど、Sがウチに一人で来たのはその晩が初めてだったはずだ。

Sは二つ三つ年上で、バイト先でも先輩になる僕に対してとても礼儀正しく、最初のうちはきちんと正座をして僕が差し出す酒を押し頂くように口運んでいた。
僕らは他愛もないバイト先での笑い話なんかをしていたのだけど、ほどほどに酒が回ったところでSがポツンと言った一言がその日の飲み会の流れを変えた。

「Mさんって・・・いいスよね・・」

「はぁ?お前Mさんのこと好きなの!!??」
なんだなんだなんだ、お前お前、聞かせろ聞かせろ聞かせろオレにオレにオレに!
断っておくけど40半ばになった今でも、僕のこういう軽薄な態度はいっこうにあらたまることがない。

「はぁ・・好きなんですよ。オレMさんのこと」

僕は「ウ〜ム」と腕を組んだ。
Mさんというのは、僕らの店でアルバイトをしている仲間の女子大生だ。
ちなみにMさんと僕は同じ大学で、僕の方が学年はひとつ上だったった。

「Mさんかぁ・・お前・・ライバル多いぞ」

「はぁ〜〜〜そうッスよね〜〜〜」
とSはその山のような身体を気の毒なくらい縮めてしまっている。
実際問題Mさんはバイト先でも人気者の女の子で、彼女を狙っているのはバイト仲間だけでなく常連客にも数人いたほどだ。

一度告白してしまったSは胸のつかえが取れたのか、堰を切ったように「Mさんがいかに素晴らしい女性なのか」「どうして僕はMさんのことを好きになったのか」「Mさんとこんな会話を交わしたんですよ僕」というようなことを、それはもうクドクドクドクド喋り続けた。

僕は「うんうん」「それでそれで」と相槌を打ちながらも、話に夢中になって迂闊なことにSが結構なペースでグラスを空にしていくのに気が付かなかった。
段々Sの口調が怪しくなってきた。同じ話の繰り返しが多い。目も心なしか座り気味だ。

「ヤベ。飲ませ過ぎたか」とは思ったけど、こんなことはよくあることだし、そのうち酔って寝てしまうだろうそれ程気にもしなかった。

しかしそこが○○大学空手部のポテンシャルだ。
Sは突如「ウオーッ」と叫ぶと僕の部屋の壁に正拳突きを食らわせ始めたのだ。
ミシッと部屋が揺れ、パラパラと漆喰の欠片が舞い散る。

僕は慌てた。

ただでさえ人の出入りが多く、その上やかましいので、引越し早々僕と隣の奥さんとの関係はもう最悪に近くなっていたのだ。
顔を見る度にイヤミを言われていた。
そのくせ僕はその奥さんにアイロンや掃除機なんかを平気で借りに行ったりしていて、いやぁ若いって素晴らしいですね・・ってそんなことはいい。

僕は慌ててSを羽交い絞めにした。「バカやめろ!」

僕のような草食系の男が、Sのような格闘男を力で抑え込むことは絶対に不可能だったけど、そこはどんなに酔っていても「目上の人の命令は聞く」ことが身体に染み付いているSの性質が幸いした。

Sは「スイマセンでした・・」と俯くと、ストンと腰を下ろしまたグラスを口に運んだ。
が・・・大人しいのはその一瞬だった。

Sはまたコブシをグワーっと振りかざしたが、今度は僕の「バカてめぇやめろ!」という視線に気が付いて「ハッ」という表情をしたかと思うと、あろうことかそのコブシで自分の顔を殴り始めたのだ。

「オレはねぇ!情けない男なんですよ!こんなにMさんのこと好きなのに!」

そういうことを喚き散らしながらバスン!バスン!と自分の頬に正拳を打ち付けていった。

最初はあっけにとられていた僕は、一瞬の後慌てて止めに入ったが、興奮状態に陥ったSは容易に止まらない。
「藤森さん!止めんとってください!オレは自分が許されへんのですよ!」とさらに殴り続けた。

しかし、Sも相当酔っていたのだろう。そんなことを繰り返しているうちに、ドスンと引っくり返って寝てしまった。

僕はやれやれと胸を撫で下ろすと「とんでもない飲み会になっちなったなぁ・・また明日隣の奥さんにイヤミ言われるんだろうなぁ」などとボンヤリと寝息を立て始めたSの顔を眺めていた。

Sのそのゴツゴツと骨ばった頬に乾きかけた涙の痕がこびりついている。

僕はそれを見ていたらなんだかやりきれない気持ちになってきた。
Sの恋が報われることは恐らくないだろう。もちろんMさんに責任はない。
僕はMさんとも友達だったから彼女の優しさもよく知っていた。

しかし・・・

僕は寝ているSのポケットをまさぐった。
案の定自転車のカギのようなチャチなチャッピーのキーが転がり出た。
恐らくバイク屋で付けてもらったんだろう。安っぽいビニール製のキーホルダーがぶら下がっている。
僕は一応「S。ちょっと借りるぞ」と断るとアパートの外へ出た。空はすっかり明け始めていて、早朝のひんやりとした空気の中、チャッピーはチェックの可愛らしい柄のシートを夜露に濡らして佇んでいた。

僕はキックでエンジンをかけると、あてもなくチャッピーを走らせ始めた。
ギアを上げると「ガコン」というショックの後に、ちょっとだけチャッピーは加速した。それでも40kmがせいぜいといったところだ。

僕はアクセルに合わせて大きくなったり小さくなったりするエンジン音に合わせて絶叫しながら街を走った。
チャッピーのステップの上に中腰になって立つと、意味もなく叫びながら早朝の街中を疾走したのだ。

Sのことを誰が笑えるんだ?

誰が他人事に思えるんだ?

さっきのSはオレ自身だ。誰だってSと同じなんだ。
みんなまだほんの二十歳なんだ。

女の子のことで取り乱して、我を失って、それを笑える男がいるのかよっ!

一通り走り回ると、僕のなんだかワケのわからな苛立ちのような怒りのようなものが急速に萎んでいった。

僕はまたアパートの前にチャッピーを停めると部屋へと帰った。

部屋ではSが大イビキをかいており、僕もアホらしくなって寝た。

昼近くに目を覚ますとSがしきりに頬を押さえながら顔をしかめている。
そしてヤツは僕に向かってこう言ったのだ。



「なんか・・・ムチャクチャ顔痛いンすけど・・・藤森さんオレに何かしました?」
夜明けのチャッピー